オウム真理教の結果を知って思うこと

刑の執行によって社会を震撼させたオーム真理教の一連の事件に
一つの区切りがついたのでしょうが
この機会にもう一度信仰と理性について考えてみました


ヴィトゲンシュタインの「論理哲学論考」という著作を久し振りに読みなおしてみました


信仰と理性に関する問題に関してヴィトゲンシュタインは信仰を「語りえぬもの」として
理性では「沈黙を保つ」という立場をとります


つまり形而上学的な命題(原罪、神、信仰等々)はコトバの認識を超えているので
理性によって理解することには限界があると言うのです


理性的に判断できない形而上学について論議することは無駄ではないのですが
それはあくまでもそのように信じている信仰者にとっての真理であって
論理学的には「語りえぬもの」は実証できないと言うのが
ヴィトゲンシュタインの主張です


「沈黙すべし」と言ったのはインドの釈迦も同じで
形而上学的なことに関しては語らなかったのです


アウグスティヌスは信仰と理性に関しては一貫して信仰の優位性を取ります


パスカルも
「神を感じるのは心情であって理性ではない。信仰とはそのようなものである」
と「パンセ」中で述べています


堕落論は歴史的事実と言うより形而上学の話です


原理講論は科学(理性)と宗教(信仰)を統一したと言いますが
理性(科学)で分かりえないものは信仰(宗教)を持つことによって
統一されると言う逆説的な意味に捉えたほうが良いのかもしれません


かく言う自分も聖書の血統に関する話などは実証論理と言うより
聖書の全体の流れを最も合理的に解釈したものと捉えています


しかしそれと祝福体験とは全く別のものだと言うことです
何故なら一連の祝福儀式は理性体験ではなく信仰による実存体験だからです


つまり神や血統の問題は理性による認識ではなく
実存的体験によらなければ分からないと言うことなのです


信仰者はそれゆえ神的な対象(教祖)に帰依すればするほど
内的決意が固まっていくので
部外者が理性で説明しようとしても
簡単に信仰観を翻すことが出来なくなるのです


イスラム原理主義のテロも刑の執行が終わったあのオームの7人も
信仰と言う言葉の中に身を捧げた結果なのです


結局、問題は信仰している対象(例えば韓鶴子氏の無原罪の問題)を問題視する以上に
その対象に対する自分の姿勢を問うべきなのかもしれません


信徒が真の父母によって救われ原罪を清算されたと言う実感があれば
対象が与えようとした目的はその信仰者内においては完結したのですから
帰依した対象が自分の中にある信仰観に合致しなくなってきたと言って
危機感を煽るより信仰観が違うと理解し
神が与えた理想の実現に向けて頑張ることのほうが大切なのかもしれません


宗教論議はイエス死後の初期教会のころから現在も続いている現象です
多くの分派に分かれたキリスト教ですが唯一変わらなかったものは
キリストの愛に対する確信です


愛は理性を超えている信仰の実存体験なのです


従って論争する現状からそれぞれの信仰観を認めて
自身が愛の実体になり「語りえぬもの」を現し
より大きな世界平和や人類愛と言ったレベルで
お互いに協調する方向転換の時期に来ているのかもしれません

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