三位一体信仰の危険性

いろんなシックと話す機会がありますが
返って来る言葉にオモニとアボジは
三位一体だと言う決まり文句があります


三位一体とはイエスと神と聖霊は三位一体
それゆえイエスは神ご自身であるというキリスト教の教義です


イスラム教がキリスト教を受け入れない要因の一つは
イエスを人間から神そのものに格上げしたからなのです


この三位一体論に明確な反論を述べたものが
言うまでもなく原理講論のキリスト論でした


「イエスは地上においても原罪がないと言う点を除けば
我々と少しも異なることのない人間であられるし
又、復活後、霊界においても
弟子たちと異なるところのない霊人体としておられるのである
・・・・『わが神、わが神、なぜ我を見捨て給うや』と言われた
み言葉を見てもイエスが神ご自身でないことは明らかである」
キリスト論より


ではオモニとアボジの一体化とは何を言うのでしょうか


人間は誰もが霊性を持っていますから
親しい人間が亡くなると
自分の傍らにいるような気持になる時があります
しかしそれを完全一体とはいいません
復活論の教えにあるように霊的協助と呼びます


それでも韓氏オモニだけは特別な存在なので
オモニとアボジは完全一体となっていると言うのです


では一体となったアボジは
次のようなことを本当に言っているのでしょうか


「文家より韓家を優先しなさい」
「天一国国歌を変えなさい」
「み言葉を好きなように改竄しなさい」
「息子たちを追い出しなさい」
「裁判にかけて徹底的に訴えなさい」
「私は原罪があったがオモニは無原罪」
「オモニ以外の女性とは結婚すべきではなかった」


言いだすと際限がなくなりますからこの辺にしますが
一体とはあくまでも愛における一体の意味なのです


思考も感情も全てが一体だというような理解が
まかり通る指導は危険な妄信に導くのです
また信仰者にとっては一番気を付けなければならないことなのです


オウムの悲劇を見るまでもなく
人間を神そのものと絶対視すると
理性的判断が希薄になります


この反動が後の啓蒙思想を生み
共産主義思想の温床になったのです
無神論を生んだ最大の原因はキリスト教徒の
無分別な信仰観にあったのです


「オモニとアボジは三位一体です」
単純に教え込まれた内容を信じることが信仰者なのではなく
原理を中心にみ言葉でその真偽を確かめ
一人ひとりの良心の声に従って判断することが
本来あるべき態度なのです


だからこそ「み言葉」には絶対手を付けてはいけないと
アボジは厳命したのです


飼い主に黙って従う弱い羊の群れは
飼い主がいなくなれば生きていけなくなります


柵の外に出て自分の足でしっかり立ち
オーナーシップを確立して
主体的に生きることが今こそ求められているのです


三位一体と言う中身のない言葉に翻弄されて
某カルト集団のような過ちを犯してはならないのです

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