良心宣言

私は幼少期から自分の中に
もう一人の自分がいることに気が付いていました


小学生の時は恥ずかしがり屋でしたので
人前に立つと言うことが嫌いでした


或る時
音楽の時間で一人一人が全員の前で
歌うことになりました
私は順番が来るまでずっと緊張していたので
実際に前に出て歌った時には
体が硬直していたのが分かる程でした


何とかか細い声で歌い始めたのですがその時
私は奇妙な体験をしたのです


それは緊張している自分の声が
あたかも他人の声のように感じられ
歌っている自分を冷静に見つめている
もう一人の自分がいることに気が付いたのです


十代の頃のバイブルはフランスの詩人ランボーの
「地獄の季節」という本でした
彼も同じように「わたしとは一個の他者である」
という自分の中の他者性に気が付いていました
自分と同じ感覚を持っているこの詩人に
私は親近感を持つと同時に
同志のような感情を抱いたものです


前回、空間定位と言うことを書きましたが
現象世界は原理でいう主体と対象に分立する所から始まります
その分立の主体が「私」と言う意識なのです


しかし原理では人間は堕落したと言うことになりますから
「私」という意識は自己中心と呼びサタン的なるものとして
自己否定することが何よりも大切なことと教えられてきました


アベルカインの考え方はその最たるもので自己を否定して
アベルに従うことが蕩減条件として
信仰の正しいあり方と教育されたのです
「供え物には口がない」という祭物思想がそれです


この考えが信徒の信仰観の中に血肉として浸透しているので
アベル中心主義は未だに信徒の信仰姿勢となっています


しかしこれは家庭連合だけの専売特許ではなく
殆どの宗教も同じように自己否定を教えてきました
献身や出家と言う行動は自己中心性を否定し
生涯を神仏に身を委ねるということです


宗教指導者や公職者と呼ばれる人たちは
自分を如何に否定して他者の為に生きるかを
身をもって現す人たちのことです


話を最初に戻しますが
「人間は一個の他者」と言ったのは
自分を見つめる眼差しの主体は誰なのかということを指摘したかったのです


私は長い間「思考の思考」と言う内観法を行じてきました
自分の心の中に浮かび上がる想念や思いを見つめる
一種の密教的な修行です


人間は自分の心の中に感じる悲しみや苦しみ
怒りの情感に自己を同一化して一喜一憂します
哲学的にはこれを表象意識作用と言います
殆どの日常生活はこの表象意識によって営まれています


過去の記憶やその場の状況に応じて心には無数の想念が
浮かんでは消えていきます
そしてそれらの浮かび上がる想念をコントロールできる人は
殆どいません


心に浮かび上がるこれらの想念はまるで流れる雲のように
浮かんでは消え且つ消えてはまた新たに浮かんでくるのです


私は長い間
人間のこうした心の有り方が不思議でなりませんでした
心は自分のものと思っているにもかかわらず
自分の主管の下にない無数の想念が勝手に
浮かんでは消えていくのですから


これを心理学では潜在意識の働きと定義し
ユングはこの無意識の集積されたものを集合的無意識と呼びました
想念には自分でも予期しない無意識からの影響があるという学術的な分析です
仏教では唯識思想の中に無意識の詳細が追求されていて
このことを阿頼耶識と呼ぶようです


内観法とは「思考の思考」のことを指します
自分の中に想起する思考をじっと注視する行です
想念を雲として捉えれば流れる雲の背後にある
無としての蒼空に視点を置くと言うことなのです


この蒼空に視点を位置し憩うことを訓練していると
やがて様々な思いや感情の嵐をじっと見つめることが出来るようになります


そして或る時
私はそれが良心作用であることを悟りました
良心は誰のものでもなく全ての人間の中にある普遍的なものだったのです
又それこそが神と人間を繋ぐ経路であることを実感できるようになりました


自己中心とは自分の中の感情に自己同一化してしまい
感情の赴くままに行動することを言います
本然の人間ならばその感情は正しく機能するので
間違いを起こさないのでしょうが
堕落した人間はその感情が神の心情と切り離されているので
時として感情が高じて暴力的になると具体的な悪行となるのです


嫉妬心や怒りは堕落性ではありません
神も嫉妬し義憤は正義の怒りなのです


「罪が門口で待ち伏せています
あなたは其れを収めなければなりません」
カインが聞いた声は自分の心の中の良心の「私」だったのです


堕落とは神の立場「良心」に従って主管できなくなったことをいいます
「とって食べるな」という戒めは
どこか外の世界から聞こえて来たのではなく
自分の良心に聞こえてきたのです


幼少時に緊張している自分を見つめていた冷静な「私」
その「私」の心情が成長するに従って「良心」を通して
神が少しずつこの世界に顕現するのです
それは見るもの聴くもの全てが新鮮で生き生きとした実感の世界です


後天時代は自己否定をして
中心者に報告をしてそこからの指示に従うといった
従来の使命感の次元から
やむに已まれぬ心情が自然にまさに自然に湧きあがり
自分の中に生きる神の心情を基台とした「良心」に沿って
主体的な意識をもって自発的に行動する時代なのです


神の子たちが「私」の主管性を取り戻し
一人ひとりが神を着て生きる時代は既に始まっています
それが文師が最後に残した「良心宣言」なのです


「今ではもう罪悪の蕩減復帰時代である先天時代が過ぎ去り、天法によって治める法治時代、すなわち後天開闢の時代が到来しました。真の父母様から祝福結婚を受けて血統転換を完成し、『正午定着』的な人生、すなわち影のない人生を歩みさえすれば、皆様は今から自動的に天国に入っていける、恩賜圏の時代に入ってきているのです」


「たった一つ皆さんが繋がる道は良心の命令を絶対視して其れと一つになることによって神様と共になるような基準になると言うことです」


「良心は両親に勝る、良心が先生に勝る、良心は神様に勝る」

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