家屋を飾り、蓄財を戒めること

いつの時代も人間は天国理想を抱えて生きています
黒澤明の映画に「どですかでん」という作品がありました
貧しい親子が丘の上にある白亜の御殿に住む夢を毎日想像しながら
現実は空っ風が吹きさらす掘っ立て小屋の中で
極貧の生活をしている親子の物語です


黒澤の名作「七人の侍」も貧しい百姓たちが野武士に襲われる現実に対して
力の強い命がけの侍を集めて彼らに自分たちの村を守ってもらうと言う
貧しい百姓たちの物語です


三船敏郎演じる菊千代はその中で自分が貧しい百姓出身であることを隠して
侍の振りをしますが最後にその正体がばれてしまいます。
その時彼は百姓のいじけた根性を自己憐憫と侮蔑を込めて批判するのです


「百姓はいつも誰かに助けを求めるだけで自分たちで闘う強さを持たない連中だ
俺はその根性に反吐が出るんだ」というものでした


黒沢は人間は弱いものであり現実の厳しさを乗り越えることが出来ずに
只理想を持つだけで実際はいつも誰かに頼ってしまうという
挫折する弱者の姿を描いたのです


現実は貧しいけれどいつか丘の上の白亜の御殿に住めるかもしれない
そしてそれは誰かがもたらして私たちを救ってくれるだろうと信じるのです


理想的な天国や救いはどこにあるのかと問うと
「それはあなた方の心の中にある」とイエスは応えました。

原理では救いはメシアの為の基台をつくることです
信仰と実体を通してどこにその基台を造るのかと言うと
同じように我々も心の中につくるのです


実際的にはどういうことかと言えば「み言葉」を心の中に
定着させるとでもいうのでしょうか
「み言葉」の通り生きることが出来ればメシアの為の基台が
あなたの中に出来ると言うことです


ところが現実は弱い百姓であり、掘っ立て小屋の住人なので
理想は思うだけでやはり誰かに従いたいのです


その表れがメシアの基台を外に求めて崇拝する大会になるのです
まさに守ってくれる強い指導者に憧れその人に頼れば
全ては旨く行くというのは百姓根性そのものなのですが・・・
そしていつか誰かがもたらしてくれる理想的な白亜の御殿を夢見ることも
貧しい掘っ立て小屋の住人にすぎないのに・・・


天国は誰に頼る者でもなく自分で創造するものです
メシアの基台を心に持つ人たちは自分の足で立ち
そうです男なら侍となり納得のいかないことには毅然として立ち上がり
理想を実現するためには薩長連合(飛躍してますが)を模索し
自分の周りに本物を求める同志を募り
天国の環境圏を打ち建てる人のことです


結論は簡単です既に神に対しては自分の名前で祈り
イエスも真の父母の名前を通してはいません
それぞれが真の父母になれるようメシアの基台を
心の中に抱いてそれを実践する時代になっているのです


そして国家は復帰するものではなく建設するものです
その為の真の指導者とはこうあるべきなのです


「万民の上に位する者、己を慎み、品行を正しくし、驕奢(ぜいたく)を戒め、節倹を勉め、
職事に勤労して人民の見本となり、下民その勤労を気の毒に思うならでは、政令は行われ難く、然るに草創の始めに立ちながら、家屋を飾り、衣服を文(かざ)り、蓄財を謀りなば、維新の功業は成し遂げられざるもの也」
西郷隆盛

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