裁判におけるオモニの供述

弁護士が韓鶴子氏に向かって次のような質問をしています


「絶対服従、絶対愛、絶対信仰と仰るのは真の父母に対することですか?」


オモニの答えはこうです
「それが家庭連合が持つ宝物です。真の父母と一つになる人生を生きることが
彼らの目的であり、願いです。そのような人生を生きてこそ

神様の前に出ることが出きる。つまりは神様の子女になるためには
真の父母を通してしか道はない」


「1943年に私が独生女として誕生しました。 説明しようとすると長いから、
それで神様は創造原則に神様が創造したアダムとエバに成長期間が必要だったように、
独生女として生まれた私にも育つことができる成長期間を
天は保護しなければならなかった。・・・・・・
独生女として誕生したために神様は私が理性で決定できる時まで
待たなければならなかった。だから私が天の摂理を知っているから、
神様の願いが何か知っているから、私が幼い年に決定した。
真の父母の位置に進むことを決定した。 それで成婚をした


「 神様が、アダム・エバを創造された時、堕落する前にアダム・エバは
神様と通じていた。一問一答、独生女、神様の娘だ。
六千年ぶりに訪れた神様の娘だよ。 ということは神様がどのような考えをしているのか、どのような摂理をしていらっしゃるのか知っているということだ。 
だから、イエス様も十字架の真の父母の使命をするために来られたけれど、
その環境が支えることが出来なくて、再び来られなければならなかった。
もう一度来て、子羊の宴をしなければならなかった。
 それで私は時を知って、年は若かったものの、独生子の位置は残っているけど、
その使命をできる方がレバレンド・ムーンだということを知った。
そうしたら私が結婚をしてあげて初めて真の父母の位置に行くことが出来るんだよ。

それで、その時から真の父母として祝福行事が成される様になっているんです。
今は霊肉界の数千億の人達が真の父母の名前の下に祝福を受けて
新しい人生を生きています」


この供述を読むと分かりますが韓氏オモニは全ての復帰摂理は
自分がしてあげた自分が主体なのだと読むことが出来ます


原理の今までの教義的理解では復帰は
男性が中心となって行われてきたということでした
それは復帰摂理が再創造摂理であるために
創造原理に従いアダム創造が先なので復帰摂理は男性が中心だったのです


ところがオモニは創造原理的な原則が分からないのか
理解されていないのかわかりませんが
全ては逆の経路である復帰原理としてしか見ていないように思えるのです
オモニの立場から見れば確かにその通りかもしれませんが
「6000年の歴史は独生女を迎えることにあった」というのは
あくまでも復帰摂理上のプロセスに必要っだのであり
再創造原理の目的から見れば「6000年の歴史は独生子を迎えること」
だったのです


さて供述の中で七男の享進様を「中学生レベルの能力しかない」と言ったり
三男の顕進様を「独自的に行動し親に従わない」といって
叱責しているのですが子供を責めれば責める程
母としてのご自身の失敗を公的に宣言していることになるのです


考えてみて下さい。自分の子供が組織の会長職と言う重責に任命したにもかかわらず
中学生レベルだったというのですから親は全く見る目がないと言うことです
もっといえば子供に対してどれほど無関心だったかということではありませんか


どこの家庭でも仮に子供が有名大学を卒業して自分の事業を引き継がせる時
その子供の能力も知らずにトップの経営の責任を与えることなど考えられません


またその事業を発展させるためにその息子が新たな方法を独自に考案し
イノベーションに成功して組織が大きく発展し始めた時に突然
創業者の命令に背き勝手に組織を発展させているとして
頑張っている本人の意見も聞かずに役職を下ろすでしょうか
挙句の果てには組織から追い出してしまなどとは
到底考えられません


この供述書を読みながら感じたことは
オモニは長い間アボジの傍らにいて殆ど自己主張が出来なかった
抑圧された心の状態が噴き出ているように感じてなりませんでした


オモニの人生が愛と言うより強烈な使命感で生きてきたのではないのかと
思わせるほどです


次の供述をお読みください


「完璧でなかったから、母親を知らないから… 母親なしにどうやって自分が生まれたのか? 今まで宗教か?うん? 今まで世の中は男性中心になって来た。それで今日この現象がどうなの? 一つになっている? 一つになれないじゃないの? これが一つになるための、一つになる様にするところに一番近い方はオモニだよ。オモニと一つになれなければ未来に指導者になる事は出来ない。うん? 父母と同じ心を持たなくてはならないのに、自分を中心とした、自分中心、自己中心、自分の功を考える息子は責任者になる事が出来ない。真の子女の姿勢は父母と一つになるのだ」


自分中心、自己中心に摂理を行っていると述べていますが
これは顕進様に対しての不満を述べています
その言葉をそのままご本人に返せば
オモニこそ真の母という印籠をかざして全てを自分に向け
自分中心にしようとしているようにみえるのです
そしてその原因が強烈な男性不信にその根があるように感じられます


創造本然の在り方として全ての承諾や権威を
父母に対しての絶対服従であるならば神は人間に自由を与えた意味を
見出すことが出来ません


愛は服従を求めるものではなく無限に与えることが原則では
なかったのでしょうか?


アボジの聖和をきっかけに長い間
抑圧されていた自我が解放され
加えて側近たちの美辞麗句に幻惑されたオモニの内面に
自分中心の自我肥大化現象が起こっているのです


心理学者のユングは自我肥大とは無意識の元型(霊的なもの)に
支配された状態のことを指すといいます


仏教では魔とか慢心と呼び自分を絶対者として思い込んでいる状態のことです
自己が目に見えない元型と同一化すればするほど
自我が肥大化し精神状態が不安定になり危険になるといいます


肥大化した自我は自己誇大、不遜、傲慢性となって表れ
その姿は自分以外の人間に対してひたすら忠誠を誓わせ
相手の自由を奪い一方的な従属関係を強要するようになると指摘します


オモニが神に向けるべき謙遜な思いを真の母の威厳に向けさせると
自分が絶対者になり必然的に絶対服従を要求するのです


創造の原則は主体は対象に対して絶対信仰、絶対服従なのですが
主体である自分が自我肥大化すると絶対信仰を自分に向けさせるのです
ここに魔の入り口があるのでイエス様は謙遜と感謝の気持ちをもって
下座に降り弟子たちの足を洗ったのです


天宙の中心を自己に向けることは恐ろしいことなのです
それは愛の原則に背くことになります


愛は与えて忘れるのが原理であり原則です


私たちはかつての美しいオモニの心を知っているから
今のオモニを見るたびに心が痛みます


誰がこのようなオモニにしたのかと責任転換をすることは
時宜にかなっていないのかも知れません


今できることは一人一人が悔い改めオモニが再び
真の母として戻ってこられるよう祈ることが
祝福の恩恵を受けた信徒の取るべき態度なのかもしれません

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