私とは誰なのか?

後天時代とは
創造原理が始まる時代のことです
確かに社会の現状は神が本来実現しようとした
理想世界ではありません


だからと言って全ての思考方法を一世のように
蕩減原則によって判断する必要はありません


祝福二世たちは本然の在り方をしっかりと見据えて
生活の中に創造原理を生かして生きる時がきたのです


では創造原理の最初に学ぶべき大切なことは
何でしょうか?
それは「私」とは誰なのか?と言うことです


若き日の文師の書かれた幻の原理原本にこのような記述があります


一番の中心点は「私」の存在であり、この「私」が全ての問題解決の
根本問題である。従って、天宙の基本単位と言える「私」を明確に解決すれば
神様の有無は大きな問題ではない
それゆえ神様の根拠がどのようにあるかと言うことを知る前に
創造された立場の「私」の根拠に関する実感性を理解することが重要である
それを探究し体感できれば第一存在は確実に
意識存在として知ることが出来るのである


自分の体を見てカラダのどこに
「私」はいるのでしょうか?


切られた爪に「私」がいるのでしょうか?
「私」から離れた爪はゴミくず行きとなります


「私」は心の意識作用と言うのなら意識はどこから生じるのでしょうか?
脳の中にあるのなら脳細胞のどこにあるのでしょうか?


「私」とは誰なのか?
これが哲学や宗教の問題でした


原理でいう堕落とは霊的なものに関しての感性が鈍くなり
神の霊統(血統)から切り離されたと考えます
つまり神の居場所が人間の中に無くなったと言うことです


唯物思想はその典型で全ては物質である脳が生み出したもの
という観点から思想が構築されています
そこには霊的なものに関する認識の世界がありません


物事を実証的な物質感覚から見る生活に慣れてしまうと
物理現象の背後にある霊的世界が分からなくなり
見えないものが存在を支えているという感性が曇ってきます
そのくせ見えない心が体を動かしている事実は
誰もが知っているのですが・・・・


「私」が神の霊に繋がることを霊学では霊統といいます
その観点では神が象徴的に衣を着ているのが自然界
人間は神の霊が直接流れてくる実体存在と考えます
そしてその中心にあるのが「私」という意識です


神は主体の立場であり被造世界は対象の関係になります
人間も同じように「私」と言う意識を主体とすると
「私」以外は全て対象となります


文師は晩年、先生は「実体み言葉」君たちは「み言葉実体」と興味深い
言葉を残しています


「実体み言葉」とは本然の人間のことを指し
「み言葉実体」とはみ言葉に実体を合わせようとする
蕩減時代や成長過程の人間のことを言ったのではないのでしょうか


実体み言葉になった人間は
神の霊が「私」を通して流れて来るので
語る言葉は神霊の直接的開示となります


み言葉に実体を合わせようとする信仰一世は
必ずそこに蕩減という条件が必要となりますから
水をかぶり、断食をし、献金をするなど
復帰原理的信仰観が染みつきます
そうしたものの見方を教えられると
創造原理からの観点が希薄になってしまいます


二世は本然の成長段階を辿ればよいのです
それは神が「私」を通して生きているという感覚を
生活の中に積み上げていくことです


例えば知情意は対象との授受作用を通して成長します
見たり聴いたり触れたりしながら関係の中に
四位基台を造るのですが神を対象化するのではなく
自分の中の「私」を通して現れると言うように
思考の転換が必要となります


被造世界を創造した神は時空間の中でしか顕現しません
それはあたかも音楽の楽譜が目の前にあったとしても
その楽譜が誰かが演奏しない限り楽譜のメロディーが
どのような曲なのかが分からないのと同じなのです


ではそれはどのような意識として現れるかと言えば
カラダも心の思考も情感も自分のものではないという意識なのです
全ては与えられ自分で作ったものは何一つないのです


存在は与えられたものなのに自分のものにしてしまったことを
堕落の血統と呼んだのです
「あなた方は生きているというのは名ばかりで実は死んでいる」
これは「私」と神の通路が途切れたことを指すのです


「私」を神の道具として使って欲しいと願った聖フランシスは
神は「私」を通して流れてくることを知っていたのでしょう


カラダは神を着て生活するようになっています
だからと言って傲慢になってはいけません
謙遜で柔和な意識状態が神を迎える土台なのですから
本来はこうした基本的な在り方を家庭の中で学ばなければなりません


与えてもなお与えたい心情の関係を家庭の中で体験できれば
「実体み言葉」が当たり前となり
それが広がるところが天国になるということです


人間の「生心」における良心作用を通して
「私」と言う意識の中に神の霊が注がれます
「私」とは他の誰もが発することが出来ない
唯一絶対の「私」だけの言葉の響きです


揺れ動く情感は物理原則の超弦理論の「揺らぎ」と同じです
固定できない心の自由を象徴しているのです
神が原理原則を宇宙創造の基本にしなかったのは
まさに束縛されない心そして愛が創造の本質だったからです


神は創造主であると同時に「私」を通して現象化する
内在神でもあるのです


「私」を通して見たり聞いたりする以外に神もまた
実体感覚を得ることが出来ません
「私」という一つの個体現象は神の最も奇跡的な直接的な現れです


カラダの全ては神からきています
だから自分のものではないのです
愛も同じように自分のものではありません


神と「私」は共に生きる共鳴関係なのです
それを文師は父子の関係と呼んだのです
唯一絶対である神と同じように「私」の存在も
宇宙史に現れた一回限りの唯一絶対なる個的存在なのです


血統の転換とは動機が神にあることを
生活の中で確信して生きることです
その実体的転換が男女の中にから始まると言うことです
だから祝福なのです

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